丹波マンガン記念館設立趣旨と経緯

    丹波マンガン記念館は李貞鎬という一人の男の忘却を遺そうとする意思によって建設された。
李貞鎬はマンガン鉱山で採掘を40年経験し、じん肺症に苦しみながら朝鮮人強制連行の歴史や被差別部落の歴史、マンガン採掘やじん肺の歴史、地質や産業に利用されたマンガンの歴史を残す事を目的に1986(昭和61年)建設を開始し個人の資力と努力で1989(昭和63年)開館した博物館です。

 丹波マンガン記念館は、1986年から3年間の準備・工事期間を経て、1989年に開館したのち約30年間運営してきましたが、初代館長は開館して4年後に他界、その後は息子である李龍植が館長を努めてきました。
2009年に財政難の為、一旦閉館しましたが2011年より再開館して現在に至っています。

丹波のマンガン鉱山では約3000人もの朝鮮人が強制連行や募集連行によりマンガン鉱山で働いていました。
何故、多くの朝鮮人が働いたか?というと、日本の植民地支配に原因があります。
土地調査事業によって日本の「東洋拓殖会社」(会社といっても日本国営)によって70%の田圃などの土地が取り上げられ多い所では90%以上の年貢を強いられ離農した朝鮮人が職を失い渡日した。

次に日本が植民地支配していた期間に朝鮮から日本に持ち出した米は2400万トンで朝鮮人の食べる物がないのに日本が食料を略奪して日本本土に「飢餓輸出」をしていたのです。綿花、亜麻、マユ、など繊維原料も60万トンも略奪しています。
その他の穀物は1900万トンも略奪しています。

次に日本が植民地支配していた時の政策に「山林令」があります。
日本の植民地支配以前は朝鮮では山は公共の物で誰でも山に立ち入って芝刈りが出来たのですが日本の植民地支配が開始されてから「山林令」が発布され山が立入禁止になったのです。
この政策は朝鮮人の燃料がなくなる事を意味しました。

李貞鎬の父も朝鮮で日本に土地を取り上げられ日本に居る兄を頼って渡日しましたが直ぐに病気にかかり医者に診てもらえず亡くなりました。李貞鎬の父の兄。つまり李貞鎬の叔父が弟の名が絶えるから長男の李貞鎬を日本に遺せと言われ泣く泣く李貞鎬の母は弟を連れ朝鮮に帰りましたが弟は朝鮮で直ぐに亡くなり母は再婚して李貞鎬は天涯孤独の身となったのでした。

日本は鉱物資源が少なく殆どの鉱物は必要量の1/10程度しか採掘されませんでした。
第二次大戦中の後半にはアメリカに制空権を握られ輸送船が沈められ外国の鉱物は、ほとんど輸入されませんでした。その上、日本人は「学徒出陣」といって学生まで兵隊に徴用したので鉱山だけでも100万人もの労働力が必要で強制連行は人手不足と鉱物不足が原因でした。

マンガンの90%は鉄を硬くする為に使用されました。第二次大戦中には銃や大砲の砲身、戦車の鋼板やキャタピラーなどの鉄の強化剤に使われ戦争遂行には必要不可欠な軍事物資でしたので多くの朝鮮人が集められたのです。
戦争当時は2万もの鉱山が稼働しており、内1万の鉱山は朝鮮人が強制連行されました。300万人ともいわれる強制連行は労働者不足、金属不足を補い戦争を継続させる為に必要不可欠な事だったのです。

丹波マンガン記念館は、初代館長である李貞鎬氏(故人)が、じん肺に苦しみながらも、在日朝鮮人の歴史を残すために、私財を投げ打って家族と共に創り守ってきた博物館です。「坑道(穴)に入れば厳しい労働が解る」と坑道を300m歩けるようにし資料館、進入道路1.2kmの道路や飯場を建設しました。

日本行政からは『そんなものを作られると迷惑だ。町のイメージが悪くなる』との冷たい対応のみで、運営補助は一切なく、開館して現在まで運営補助金は1円も拠出されず運営など全てを独力で行なわないといけない厳しいものでした。
毎年500万円ずつ赤字で現在まで赤字補填を続けました。

しかし、日本には現在5000もの博物館がありますが100万人以上も強制連行された事を遺す公共の博物館は一館もありません。
日本軍がアジアで3000〜4000万人もの殺戮を行った加害歴史は闇に葬られ学校でも教えられず、マスコミは隠蔽して、日本政府は歪曲して博物館としても遺されていません。

ドイツは約千ヶ所ものナチスの加害を残す博物館やモニュメントがドイツ人の手で遺されています。
2005年当時、首相だったシュレーダー氏は「今日のドイツ人の大部分は、虐殺について直接責任はありません。
しかし、ナチスの犯罪を記憶することは、ドイツ人の道徳的な義務です。

我々は犠牲者、その遺族だけでなく我々自身のためにも、この義務を遂行しなくてはならないのです。
「歴史を忘れるという誘惑は大きいですが、我々は誘惑には絶対負けません」
以上がシュレーダー前首相のことばです。

ここには、過去を心に刻み、被害者に謝罪することが国是であり、外交政策の根幹であるという発想がにじみ出ています。
被害を受けた国や市民にとっては、ドイツが過去の悪い点を忘れない。と宣言することが安心感の源となっているのです。
日本と比べて大きく違っています。

[丹波マンガン記念館の展示]
丹波マンガン記念館は徒歩で約300mを実際に坑道(穴)に入り実体験で地質(断層、褶曲、放散虫)などを学べる自然史博物館でもあり資料館ではマンガンが産業に、どのように利用されたか学べる産業博物館。であり日本による強制連行、植民地・戦争の加害の歴史により、マンガン鉱山で従事した朝鮮人や被差別部落の人々が過酷な採掘をして、じん肺などの職業病に、なった事を遺す歴史博物館でもあります。

丹波マンガン記念館は日本で唯一の強制連行博物館なので平和の為の徴用工像も世界で初めて丹波マンガン記念館に設置しました。又、マンガン標本などマンガンに関わる資料を展示するとともに結晶、輝石、宝石などやアジアの博物館で日本の加害はどのように展示されているか。等を紹介しています。

講演で日本の加害歴史やマンガン採掘の歴史、産業で利用された用途地質等を説明しています。
日本の加害歴史では「日本の悪い事を言っている」と理解する人が多いのですが日本は原爆の事を言うのは「アメリカの悪い事」を言う為に言っているのですか?というと「平和の為」だと言います。日本の被害の歴史は「平和の為」で加害の歴史は「日本の悪い事」になるのでしょうか。

丹波マンガン記念館にもネオナチと同じ在特会等のレイシストがヘイトスピーチ(憎悪発言)をしました。
今も日本の行政やレイシストによるリアルな朝鮮人に対する差別や嫌がらせが続いているのです。
日本は起こってしまった事は起こってしまった事として、認めて、そこから事実検証(歴史学者や有識者による)、謝罪、被害者救済、和解、友好が何一つ出来ないまま現在に至っているのです。

慰安婦、強制連行、朝鮮人の軍人・軍属の徴用、731部隊等の毒ガス兵器の製造・使用、南京虐殺、日本軍によるアジアでの殺戮、。等々全否定しています。アジア各国を1000万人以上の日本軍が侵略してアジアで戦闘し310万人もの日本兵が亡くなっていますが侵略すら認めていません。

侵略でない。のであれば自国ではなく寒い満州やフィリピン等の熱い南方の国で亡くなったのでしょうか?
戦後処理は一歩も前に進まないまま今も加害否定に狂騒している事は本当に馬鹿げています。
当館の運営を継続するのは、日本が何の罪もない在日韓国・朝鮮人を70年間も差別して、これから未来へも差別する姿勢を変えないからです。

ネオナチのようなヘイトスピーチなど右傾化が益々、進んでいるからです。当館では日本の加害の歴史を残す事により日本が歴史を直視し加害の歴史を認め、認識をアジアと同一化し日本の加害の歴史を残す事こそが日本の進むべき道であり日本の国益であるという人権意識がアジアと日本との真の和解と友好を築く事で在日韓国、朝鮮人への差別の解消に繋がる事と思います。
これからも運営は続けます。「記念館は父と在日韓国、朝鮮人の墓です。父との旅は、まだ終わりません」。
運営は決して容易ではありませんが、皆様のご支援をお願い致します。

       

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