丹波マンガン鉱山の歴史

  丹波マンガン鉱の採掘・利用の歴史
丹波マンガンは2億年の昔、アメリカのハワイ沖の深海底で沈殿し地層のプレート移動により日本列島で陸になり鉱物として利用されるようになりました。丹波マンガンの利用の歴史は古く西暦760年に弓削道鏡が飲用薬として利用した伝説が遺っています。
江戸時代になると茶色や黒色の陶器の、釉薬として使用されました。

江戸時代後期に黒船が浦賀に着き大砲を撃った時、長距離の弾を撃ったので日本も同じ距離を飛ばそうとして装填火薬を増やして撃つと砲身が割れたのです。そこで大村益次郎がヨーロッパで砲身を鋳造する時に炭酸マンガンの量を多くする事を教えてもらい丹波マンガンを増量すると砲身が割れなくなり軍神として靖国神社に祀られています。

鉄は鉄だけで硬いと思っている人が多いのですがマンガンを鉄に入れないと鉄は脆い金属です。昔の日本刀はマンガンを入れなくても硬かった。と思う人も多いですが日本刀の原材料の砂鉄の中には3%のマンガンが初めから含まれていたのです。
炭で溶解しますから炭素が溶け込み鍛鉄によってより硬い刀が出来ました

第一次大戦時にはドイツのUボート(潜水艦)のバッテリーグレート(電池)に使用され電池性能が良く、長く潜水できたのでタンバマンガンというブランド名で呼ばれていた。1800年代にはマッチや豆腐の沈降材などにも利用されましたがマンガンの90%鉄を硬くする為に使用されました。

一般的な鉄は二酸化マンガンを3〜7%添加します。さらに鋼鉄を作る時は炭酸マンガンを20〜40%添加すると鋼鉄が出来ます。
第二次大戦中には銃や大砲の砲身、戦車の鋼板やキャタピラーなどに使われ戦争遂行には必要不可欠な軍事物資でした。
戦艦大和の500mm主砲には優秀な丹波マンガンが使われていました。

丹波マンガンの優秀な所は品位ではなく鉄の硬度をさげる不純物のリンや硫黄の少なさにあるのです。戦争拡大による重火器の増加と産業発展により丹波マンガンの採掘は拡大していきました。日本全国での三大産地は東北の三陸海岸地帯、四国の宇和島、丹波盆地ですが丹波マンガンは日本一の採掘量と鉱山数がありました。

京都府丹波盆地には、約300ものマンガン鉱山があり、1889年〜1983年までの約90年間の採掘によって1万5千〜2万もの坑道(穴)が掘られました。日本一のマンガン採掘地帯で丹波マンガン記念館の近くの日吉町には陸軍のマンガン集鉱所である『帝国マンガン集鉱所』があった。

星のマークの付いたトラックがマンガン鉱を集めていました。統制品として戦争の優先順位を陸軍が決定して配給していました。
戦争中には丹波マンガン鉱を出荷する為162号線沿いに鉄道を創ろうとしたのですがトンネルを5本も掘らねば鉄道が付かない事が解り山陰本線を丹波マンガン地帯に寄せる為に園部から東へ曲げて日吉(昔は殿田)駅を創り日吉駅にマンガンの集積所を創りました。

又三田〜長島線のレールを福住鉱山のマンガンを運ぶ為に福住線の鉄道を創りました。
日本は鉱物資源が少なく殆どの鉱物は必要量の1/10程度しか採掘されませんでした。
第二次大戦中マンガンは年間/300万tは必要。とされましたが実際は日本全国で35万tしか採掘されませんでした。
戦後は乾電池、溶接棒、アルミの強化剤、ガラスの着色、肥料、飼料等に利用されるようになりましたが量的には少なく安価な外国マンガンが輸入され昭和45年〜58年に殆どのマンガン鉱山は閉山しました。

       

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